桐生織Kiryu textile

織物産地としての桐生

関東平野の北部、群馬県の東端、栃木県との県境に位置する群馬県桐生市は、明峰赤城山を西に望み、四囲に山々をめぐらし街の東には桐生川、西には渡良瀬川の二つの清流があり、その清流に挟まれた盆地の中に発達した山紫水明な街。

桐生市の歴史は古く古代にその端緒を発しており縄文、弥生時代の先住民族の居住跡が発見され考古物、遺物によって明らかになっています。

桐生市という市名の由来は、元来この地方が山間部にあるため朝夕霧の発生が多かったので霧生の名が転化したものといわれ、また、桐の木が良く生えるので桐生の名が生まれたと言われています。この桐生市を中心としたのが桐生織物産地です。

織物産地としての桐生

関東平野の北部、群馬県の東端、栃木県との県境に位置する群馬県桐生市は、明峰赤城山を西に望み、四囲に山々をめぐらし街の東には桐生川、西には渡良瀬川の二つの清流があり、その清流に挟まれた盆地の中に発達した山紫水明な街。

桐生市の歴史は古く古代にその端緒を発しており縄文、弥生時代の先住民族の居住跡が発見され考古物、遺物によって明らかになっています。

桐生市という市名の由来は、元来この地方が山間部にあるため朝夕霧の発生が多かったので霧生の名が転化したものといわれ、また、桐の木が良く生えるので桐生の名が生まれたと言われています。この桐生市を中心としたのが桐生織物産地です。

桐生織の歴史

- 平安時代〜安土桃山時代 -

絹織物産地としての始まり

  • 「西に西陣、東に桐生」と伝えられるように、桐生織は1000年以上の歴史があります。桐生織に関する最古の記載は、約1300年前に編纂された「続日本紀」にあり、古くから「白瀧姫伝説」が語り継がれています。

    それは約1200年前の桓武天皇の時代、婚姻によってこの地に住むことになった白瀧という名の美しい姫が村の人々に養蚕・製糸・機織の技術を教え、それが桐生織の始まりとなった伝説です。当時の絹織物は朝廷にも献上されていたと言われています。

    1600年の関ヶ原合戦では、徳川家康の旗布に桐生絹が使われたという逸話も残っています。1333年(元弘3年)の新田義貞による鎌倉討伐の軍旗、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで徳川方が掲げた旗絹はいずれも桐生で織ったものと伝えられ、歴史の中において重要な役割を果たしてきました。
  • 桐生織 桐生織
    桐生織物史 上巻「白瀧姫御真影」
    文化元年 小寺応齋書 竝詞書より
- 江戸時代〜大正時代 -

工業化の成功、
日本の代表的産業へ

江戸時代後期には手工業生産システムを分業化し、マニュファクチュア制度を確立。赤城山麓から品質の良いお蚕が沢山とれることから、賑やかな絹織物の市が立つようになります。
そして、明治時代になるとジャカード機など当時の最先端技術をいち早く導入し近代的な生産体制を構築し、1887年(明治20年)に日本織物株式会社が創立したのをきっかけに着実な工業化に成功。桐生織物は日本で代表的な産地として地位を築き上げていきました。

  • 江戸時代中期以降、織物の取り引きで賑う「紗綾市」
    (桐生沙綾市之図より)
  • 明治41(1908)年竣工の両毛整織の工場
    『桐生織物史』(桐生織物協同組合発行)より
  • 第一次世界大戦中(大正3年~大正7年・1914年~1918年)における需要の急激な増大、ことに輸出および移出に対応するため、大正7年に大企業が相次いで設立され織機も力織機に変わっていきました。桐生織物業の工場工業化が本格的に発展することで、顕著な発展を遂げるとともに織都桐生の基礎を確立していきました。
  • 大正時代の織物工場の様子
- 昭和時代 -

戦後復興にも寄与。
そして伝統的工芸品に

昭和初期には、ジャカードを装置した力織機は9820台、ドビーを装置した准紋織機は1128台を有し、桐生織物は組織の複雑な紋織物に変化していきます。第二次世界大戦中は国家統制の強化によって大工場は軍需工場へと転換され、織物業は壊滅状態で終戦を迎えます。しかし桐生は織機復元計画によって3000台余りの織機を復元し、いち早く生産を再開。レーヨンマフラーを始めとした輸出向けの商品が戦後復興に大きく寄与し、織物の街として復活しました。1977年(昭和52年)には、「桐生織」の7つの技法が伝統的工芸品として認められました。

  • 輸出織物見本帳
  • 伝統的工芸品「桐生織」7つの技法
- 平成時代以降 -

多様なものづくり、
世界の桐生織へ

その後、歴史と伝統を大切にしながら時代に応じて柔軟に変化していき、桐生織は和装と洋装、両方の生産機能を備えた総合産地として確固たる地位を築き上げていきます。2008年には桐生織物協同組合が地域団体商標「桐生織」を取得し、明治期に商標登録されていた「桐トンボ」のデザインを基に統一マークを設け、和装、洋装を問わず『メードイン桐生』をアピールしていきます。2020年にKIRYUtextileを国内外で商標登録し、1879年に輸出向け羽二重を創製以来培われた技術をもって海外市場へも積極的にアプローチしています。

現在、和装は昔ながらの技法で着物や帯をつくり続けつつ、市場にない新しいものづくりに積極的に取り組んでいます。洋装は最新の技術を駆使し、高い品質とファッション性を武器にトップブランドにも生地を供給し、織物産地として今も日々進化し続けています。

  • 伝統と匠な技を受け次ぐ桐生織
  • 和装から洋装まで幅広いものづくり
  • 各種展示会を国内外で多数開催
  • 国外ブランドとのコラボレーション
    (VIVIANO SUE)

桐生織7つの技法

国は「100年以上の歴史を有し、今日まで継続している伝統的な技術・技法により製造されるもの」などの要件を満たす工芸品を『伝統的工芸品』に指定しています。桐生織は該当する七つの製織技法が1977年(昭和52年)10月に指定を受けました。七つの技法は「お召織(おめしおり)」「緯錦織(よこにしきおり、又は、ぬきにしきおり)」「経錦織(たてにしきおり)」「風通織(ふうつうおり)」「浮経織(うきたており)」「経絣紋織(たてかすりもんおり)」「綟り織(もじりおり)」を指します。伝統技法による織物づくりに携わる工芸士たちによる桐生織伝統工芸士会が組織され、技術の研鑽と伝承に務めています。

  • お召織

    おめしおり
    桐生発祥の最高級織物。徳川家斉が好んだことから「お召し」の名がつきました。独特の細かい凹凸が特徴です。
  • 緯錦織

    よこにしきおり 又は ぬきにしきおり
    単色の経糸に、八色以上の緯糸で文様を描き出します。
  • 経錦織

    たてにしきおり
    三色以上の経糸と二色以上の緯糸で文様を表す織物です。
  • 風通織

    ふうつうおり
    二重の生地を裏表に現すことで柄を表現する複雑な織物です。
  • 浮経織

    うきたており
    二色以上の経糸を密に使い、刺繍のような滑らかな紋を織りだす方法です。
  • 経絣紋織

    たてかすりもんおり
    経糸でかすり模様を表現し、さらに複数うの緯糸で文様を織り出す、非常に手間のかかる織り方です。
  • もじり織

    経糸が絡みながら緯糸と組み合うことで、折り目に隙間ができる一風変わった織物です。

桐生織物年表

西暦 西暦 桐生織物及び関連記事 その他の動き
714年 和銅7年 続日本記によれば上毛野(現在の群馬県)は他の諸国と共に「あしぎぬ」を朝廷に献上
752年 天平勝宝4 新田郡淡甘郷(タコウノゴウ)より黄あしぎぬ一疋を朝廷に調貢 東大寺開眼供養
1333年 元弘3年 新田義貞の軍旗に仁田山絹を使用
1575年 天正3年 13代将軍足利義輝の侍女から仁田山紬・生絹等の注文書が出される
1591年 天正19年 秀吉が全国統一
1600年 慶長5年 関ヶ原合戦の折、桐生領54ケ村より徳川方に旗絹2,410疋を献上
1605年 慶長10年 天満宮内に絹市が開かれる 桐生新町の創設 桐生新町の創設
1646年 正保3年 桐生絹市始まる。旗絹の上納(税金)が金納になる
1738年 元文3年 西陣の織物師中村弥兵衛・井筒屋吉兵衛が空引き装置を備え付けた高機の技術を伝える 越後屋(現・三越)桐生店開業
1722年 享保7年
1743年 寛保3年 中村弥兵衛、西陣の佐兵衛より縮緬(チリメン)を教授され製造
1783年 天明3年 岩瀬吉兵衛が水車動力の八丁撚糸機を考案する 浅間山噴火
1785年 天明5年 カートライトが力織機を発明
1801年 享和元年 ジャガールがジャカード機発明
1838年 天保9年 金子善衛門、縞縮緬を造り11代将軍家斉に献上する。これから「お召」の名が生まれる
1851年 嘉永4年 お召縮緬仲間成立。 お召の生産12,000反(1か月)を数える
1853年 嘉永6年 ペリー来航
1859年 安政6年 横濱開港
1865年 慶応元年 江原貞蔵、横浜に絹物店を開き、輸出の基礎をつくる
1868年 慶応4年 江戸、東京に改称、廃藩置県
1872年 明治5年 富岡製糸場開業
1873年 明治6年 ウィーン万博に出品
1875年 明治8年 この頃、桐生では絹綿交織物が最も多く生産される
1877年 明治10年 第1回内国勧業博覧会開催
森山芳平らが京都の荒木式ジャカードを購入
1879年 明治12年 桑原佐吉、小野里商店の依頼で輸出向け羽二重を創製
森山芳平、後藤定吉、化学染色法を学び舎蜜染(セイミゾメ)として宣伝販売する
エジソン白熱灯発明
1886年 明治19年 佐羽喜六が外国製ジャカード・ピアノマシンを輸入する
1887年 明治20年 日本織物株式会社設立
1888年 明治21年 藤生佐吉郎・高力直寛が木製紋彫機を製作する
両毛鉄道小山ー桐生間が開通
1894年 明治27年 桐生電灯会社設立 桐生町内に電灯が点灯する 日清戦争
1898年 明治31年 横山嘉兵衛、毛織物の東コートを製造
桐生織物同業組合設立
1911年 明治44年 村田兵作が村田式半木製力織機を完成
1916年 大正5年 飯塚春太郎オーストラリア向けスパンクレープを製織する
1918年 大正7年 人絹(人造絹糸)使用の「文化帯」を創作
1923年 大正12年 関東大震災
1924年 大正13年 豊田佐吉、豊田自動織機完成
1929年 昭和4年 石北政男、絹人絹交織お召しを製織
1934年 昭和9年 天皇陛下産業視察で桐生織物視察
1943年 昭和18年 太平洋戦争で織機14,000台以上供出
1948年 昭和23年 織機復元計画により桐生は3,000台余の織機を復元
アフリカ向けレーヨンマフラー戦後初の輸出はじまる
以降、民族衣装用ダマスク紋繻子、房付紋マフラー、金糸紋裏切り、ジョーゼット等の輸出が盛んになる
1955年 昭和30年
1956年 昭和31年 ダマスク紋繻子が桐生産地の単品品種として生産量最高を記録
1959年 昭和34年 富士絹が桐生産地の単品品種として生産量最高(550万m)を記録
1962年 昭和37年 全国織物協技大会において業界初の三部門で団体優勝する
第1回海外見本市及び市場調査を米国、カナダで開催
1969年 昭和44年 群馬輸出絹人繊織物構造改善工業組合を創立、中小企業近代化促進法に基づく構造改善を実施
1973年 昭和48年 ウィーン万博に出品
1975年 昭和50年 レピア織機が広幅織物の主流となる
1977年 昭和52年 通商産業大臣から「伝統的工芸品桐生織」の指定を受ける
1984年 昭和59年 ダイレクトジャカード発表される
1985年 昭和60年 ダイレクトジャカード(コンピューター制御)設置始まる
1987年 昭和62年 業界一本化による新生 桐生織物協同組合設立
1994年 平成6年 群馬県ふるさと伝統工芸品に「桐生織」が指定される
1997年 平成9年 桐生織物会館旧館(現・桐生織物記念館)が、国の登録有形文化財に指定される
2002年 平成14年 織物工場の「のこぎり屋根」シンポジウムを開催
2008年 平成20年 「桐生織」が地域団体商標に登録される
2014年 平成26年 続日本記への記載の年から1300年
2015年 平成27年 日本遺産 かかあ天下―ぐんまの絹物語―の構成施設として文化庁より認定される
2018年 平成30年 歴史的風致形成建造物 第1号として、桐生市より指定される
2020年 令和2年 「KIRYUtextile」が商標登録される

関連情報

Kiryu Textile(桐生テキスタイル)

桐生織の伝統をベースとした、国内外のファッションシーンの多様なニーズに応える現代の桐生テキスタイルの膨大なアーカイブや最新情報を発信しています。

桐生織物協同組合

桐生織物協同組合は、繊維産地桐生の振興を目的として様々な角度から総合的な普及活動を行っています。
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